タケルンバ卿ブログ

世界の片隅でだらだら生きる貴族の徒然帳

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2016年最終更新

 2016年もまもなく終わろうとしております。

 今年は淡々と過ごした一年でありました。目の前にあることを、ひとつひとつ片付け、丁寧に扱っているうちに一年という時が経過した。振り返ってみるとそんな印象です。

 個人的なことを言えば、遂に40歳になりました。いわゆる大台ではあるのですが、特に変わったこともなく、普通に過ごしております。そもそも39と40に大した違いはなく、そして40と41にも同様の違いしかないわけで、40という大台のキリが良い数字だけを強調する必要はないと思っています。

 とはいえ、キリがいいからこそ決意であるとか、思い入れをこめることができるという効果はあるように思います。タイミング的に何かをしやすい。キリのいい数字にはそういうきっかけ力があります。

 しかしながら私はそういう力を借りず、淡々と日々を過ごしていきたい。今、できることを淡々とこなし、今、できないことを将来的にできるようになるように準備をしていきたい。できないことはできないので、今のところは諦めつつ、しかしそれでも将来に対する可能性だけは残していきたい。今後ともマイペースに、自然体で生きていきたいと思います。

 皆様の2016年は如何でしたでしょうか。皆様の新年が健康に恵まれた実り大き一年になるよう心よりお祈りしております。

 それではまた来年。今年もありがとうございました。

 タケルンバ 拝

傍観者の価値と当事者の不便

 こういう意見があることは理解する。が、あんまり賛成する気になれないのは、それぞれに立場があるから。

 実際に使う・住む・働く人間だったら?

 例に挙がっているのは「新宿ゴールデン街」「原宿駅」「築地魚市場」。こうした場所が外国人に人気があることは知っている。が、同時に老朽化が進み、不便になっていることも知っている。

 あとは程度とバランスの話で、どうにかなる範囲なら使い続けるだろうし、どうにもならなければ建て直しするしかない。

 歴史的文化財とかいっても、実際に住む人にとっては単なる家だし、働く人にとっては単なる職場だ。耐えられる不便なら受け入れるだろうし、その不便さと引き換えに何かを得られるのならば我慢もする。が、そういうのはあくまで当事者が決めることで、外部からやいのやいのと決められる話でもないような気がする。

 地方とかでも古い建物は重要文化財に指定されたりするが、指定されると改築関係が不便になるので、こういう指定が困る場合がある。現代に合わせた生活をしたいのに、昔のままの生活を一部強いられる。たまに見に来る観光客は、昔のままを見たいからそれでもいい。が、毎日を過ごす人にとってはたまったもんじゃない。

 外国人が好む日本像というのは、教科書に載っているような「ザ・日本」で、要するに古臭いものが好きだったりする。「古臭いものが観光的に価値があるんだから、古臭いままでおれ」という話で、私は「古臭いままだと不便なので嫌です」という話に肩入れしたくなる。

 それに今古いものは将来的にもっと古くなる。今のうちに建て直しておけば、五十年後に築五十年の建物として残る。ならば、今のうちに五十年後に価値のあるものを作っておくという発想もアリだと思う。つか、本質的にインフラってそういうものでしょ。資本なんだから。

 全然お店に来ないのに、お店を閉めるとなったら「閉店するのー、ざーんねん。閉めないでー、もったいない」って言う人みたいな。そんな印象も受けました。当事者にとって良い決定をすりゃいいんですよ。

良い情報を求めて試行錯誤東奔西走

 情報に関しては「最良を求めて試行錯誤し続ける」しかないんだよなあ。

 情報リテラシー的に必要なものはすべて含まれている。

 現状を最良と思わない。他にもっと良い方法がある。改善する余地は常にある。今は良い方法でも、時が経つと良い方法ではなくなる。立ち止まると陳腐化する。

 という前提に立って、すべてを疑ってかかる。「わかった」と思い込んでしまうよりは、「わからない」と落ち込むほうがマシ。

 言い換えると「結論を出さない」ってことも必要なのかなと。東照宮メソッド。完成させてしまうと滅びがはじまる。多少のほころびとともに歩き続けたほうが健全。

 前提を疑い、論理を疑い、証拠を疑う。論理の飛躍がないかどうか。因果関係がおかしなことになっていないか。論点のズレがないかどうか。情報に接する際は常に気をつけていきたい。

 もっとも、注意していたってそれができないし、うまくいかない。だからこそわざわざこんなことを書いて、気をつけていかねばならない。

 具体的な方法で言うと、結局は一次情報最強だし、膨大な生データにあたるのが一番確実。それが面倒だから、誰かがまとめた二次情報に手を借りがちだけど、その面倒さを工面した意図(お金とか名誉とか)があるわけで、面倒さから逃げると、その面倒のコストに別方面から追われる。

 DeNAのあれこれで、「検索は死んだ」みたいな言説もちょっと見たけど、正確には「検索結果の上位表示」がある程度操作できる=死んだというだけで、検索結果全体に関して死んだわけじゃない。

 私は比較的調べ物に関しては古い人間なので、昔も今も、何かを究極的に調べるとなったら、その何かについて書かれたもの全部に目を通すことは普通だと思っている。なので、検索結果上位だけで結論を出すようなのは違うと思っているし、それでわかった気になるのも違うと思う。新聞・書籍・雑誌・インターネットにあるもの。これを全部見て、そこから……というのが本来の調べ物。

 では、時間的・予算的な制限があるなかではどうすればいいか。という条件下でのよりベターな方法論。自分のパターンを確立して、マクロ的に自動化できるのが最高だけど、それができないので、疑似マクロとして他人を使ったり、メディアを使ったり。お気に入りのニュースサイトって、要するに疑似マクロ。

 疑似マクロの精度をどう上げていくか。ここで話は戻る。決定的な方法はない。「最良を求めて試行錯誤し続ける」しかない。コピーロボットがいりゃ楽できていいんだけどね。