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タケルンバ卿ブログ

世界の片隅でだらだら生きる貴族の徒然帳

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文章修行について

 ブログというか、文章を書くということについて思ったこと。

 「なんでも書く」から「なにかあったときに書く」ようにすると、日々の負担は軽くなるけれど、書かなくなる分、きっちり書けなくなる。このあたり負担は負荷であり、トレーニングなので効果てきめん。結果に出る。書けるようになるためには日々書き続けることが必要で、そういう日々の蓄積が結果に出る。

 とはいえ、ではそうそう毎日ネタがあるかというと、そういうものでもない。三百六十五日ネタがあるようなドラマチック人生の人は珍しい。むしろ映画化するべきだ。そしてネタは偏る。ある一日に集中的にネタが発生することもあれば、一週間、二週間とネタ枯れのこともある。

 しかしだからといってそこで何も書かなくていいかというと、そういうときにもがき苦しんでネタを絞り出すということこそが文章鍛錬でもあり、なかなか難しいところ。ネタがないから書かない。別にそれで構わないんだが、それで良しとするとそのうちなにも書けなくなる。トレーニングをサボれば、その結果は自ずと出る。息をするようにトレーニングをする人は、呼吸の繰り返しの中で自然と筋肉がついていく。トレーニングをしなければ、それが贅肉になるだけだ。

 しかしながら人としての良心として、「なにかあったように書く」ということも考えものだ。嘘をつく。誇張する。でっち上げる。これが日常化するのもまずい。本当のネタがなにかわからなくなる。ネタ探しのトレーニングにはならない。嘘つきのスキルを磨いても、それが最終的に自分の身にもたらすものは破綻だ。小さい嘘は破綻が小さく、大きな嘘は破綻が大きいだけの違いしかない。

 逆に言えば、目に見える形にならなくても、書いて消して書いて消してを繰り返し、悩んだ結果すべて消してしまうような人のほうが、後々見込みがあるような気がしている。完成品はできなくても、書いて消してを繰り返した過程は血となり肉となるし、その血肉を注いだ結果を表に出さないと決める勇気があれば、決して自分を見失うこともないだろうと。

 そんなことをあちこちのブロガー論を読んで思った。地道なやつ、実直なやつがやっぱり強いし、そういう人が得をする社会であって欲しいよね。